先週、私はノンフィクション作家の織井靑吾さんと南太平洋に浮かぶ島、テニアン島に行ってきた。織井さんは、広島で中学生時代に学徒動員で建物疎開作業に向かう途中、爆心から1.6kmという所で被爆、一緒にいた学友を多数失うとともに、自らも瀕死の重傷を負いかろうじて生き延びた方で、原爆や炭坑事故に関する多くの著書を書いている。

(今も残る原爆搭載機が発進した滑走路)

(空地に展示されている原子爆弾の実寸大の模型)
広島、長崎への原爆投下から間もなく67年、自らの被爆体験を整理するために、自分達の上に原爆を落としたB29爆撃機エノラ・ゲイ号の発進基地だったテニアン島、そこに行ってみたいという織井さんから寄せられた思いがけない提案。当時私自身広島から50キロほど離れた竹原という町に疎開しており、小学校(国民学校)の窓からB29の機影と原爆の閃光を目撃、直後に被爆者に接した経験があるだけに、織井さんの気持ちが痛いほど分かり、同行を申し出た次第だった。

(織井氏と原子爆弾をB29に搭載するための穴の跡地に立つ)
太平洋戦争当時、新型の長距離戦略爆撃機B29を完成したアメリカは、日本から2200キロ離れたサイパン島やテニアン島を手に入れることが出来れば、日本本土への空襲が可能になるため、1994年の6月から7月にかけて両島に激しい攻撃を加え日本軍を殲滅、「生きて虜囚の辱めを受けず」との戦陣訓で多くの民間人をも巻き添えにして、自死に追いやった悲劇の島々が両島であった。

(洞穴に設えられた日本軍の砲台跡)

(艦砲射撃や銃弾の跡が残る日本軍のトーチカ跡)
今はリゾート地として観光客で賑わう島だが、島の北端には当時の滑走路が残り、B29に原爆を搭載した時の穴が残されているし、島のあちこちには激しかった艦砲射撃や銃撃戦の後が色濃く残る戦跡がたくさんある。とりわけ隣のサイパン島と同じように迫りくるアメリカ軍を嫌って険しい崖から海などへと飛び込み命を絶った人も多く、スーサイドクリフと言われる現場には沢山の慰霊碑が立ち、今も訪れ祈る人も少なくない。どこまでも美しい南太平洋の風景。しかし、その場に立って海面が遺体で覆い尽くされていたという当時のことを想像した時、身体が震えてきてならなかった。

(多くの人が自死したカロリナス岬)
そして翻ってこの島とサイパン島、グアム島にアメリカ軍の基地が出来、それがために原爆投下や日本各地の都市への焦土作戦が可能になったことを考えると、空襲で亡くなった人達の前にテニアン島やサイパン島での多くの死者がいたのだということを改めて気づかされ、この島と広島や長崎の死者へと1本の線でつながっていることをひしひしと体感できたのだった。そして敗戦後、被爆という酷い体験をしながらも原子力の平和利用という“美名”に惑わされ原発を黙認していた私たち、その大きなつけが福島第一原発の事故だったことを考えると、テニアンから広島へ、広島から福島への道筋がくっきりと見えてくる。旅の終わりに思い出されたのは「死者よ来たりて、我が退路を絶て」という言葉。こうした歴史の道筋から目をそらしてはならないということであった。(記:伊藤孝)