先日、ボスニア・ヘルツェゴビナから悲しい報せが届きました。日本にも馴染みの深い歌手のヤドランカさんが5月3日に死去したとの知らせでした。ここ数年、筋委縮性側索硬化症という難病に立ち向かっていたのですが、矢折れ刀つきるように亡くなられたとのことでした。

ヤドランカさんは1984年のサラエボ冬季オリンピックのテーマ曲を作詞、作曲し、自らそれを歌った旧ユーゴ―スラビアの国民的歌手として知られる人です。1988年にレコーディングするために来日しましたが、その間に祖国では内戦が勃発して故郷のサラエボに帰ることが出来なくなり、日本を拠点に音楽活動を続けてきた方でした。祖国への想いを寄せた歌や子供たちのことを唄った歌から日本語の歌までレパートリーも広く、ギターや民俗楽器のサズを弾きながら静かに語りかけるように唄う歌声は、私たちを魅了してきました。

セッションハウスでも1994年以来、6回にわたってコンサートを開き、同胞のギタリスト、ミロスラフ・タディチさんとの共演や坂田美子さん、佐久間順平さんら日本のミュージシャンとの共演をしてくれました。また、サラエボ国立美術大学で絵画を学んだ腕前を披露する展覧会を3回も開いて下さり、セッションハウスとも縁の深いアーティストでした。

故郷の橋のある風景と詩を書いたエッチング作品

展覧会にやってきた親友のオシム監督と
そのヤドランカさんが日本を後にしたのは、5年前の東北大震災の直後のこと。福島の原発事故で大使館から帰国命令が出たためのやむを得ざる離日でした。成田空港から電話をしてきて、受けた伊藤直子に対して「日本を離れることになって、ほんとにごめんなさい。」と語っていたのが、私たちとの別れとなってしまいました。その頃から足の状態が芳しくなかったようで、帰国後急速に病いが進行したとのことでした。
今もヤドさんの歌声が頭の中に響いてきていますが、もうその生の歌声が聴けなくなるとは、寂しさがつのってくるばかりです。いつも別れ際には「アディオス。また会いましょう!」と言っていたヤドさんです。でももう「また会いましょう!」とは言えなくなってしまったのです。遥か遠いボスニアの空に向けて合掌するばかりです。(記:伊藤孝)